|{DG句

June 2262005

 犀星の句の青梅に及ばねど

                           榎本好宏

語は「青梅(あおうめ)」で夏。「犀星の句の青梅」とは、おそらく有名な「青梅の尻うつくしくそろひけり」のそれだろう。いかにも女人礼賛者の室生犀星らしく、青梅の「尻」にも女性を感じて、ひそやかなエロティシズムを楽しんでいる。もっとも、この場合の女性は、童女と表現してもよいような小さな女の子だと思う。掲句の作者は、犀星句の青梅には及ばないにしてもと謙遜はしているが、かなりの出来映えに満足している様子だ。よく晴れた日、青葉の茂みを透かして見える青梅の珠はことのほか美しく、作者はうっとりと見惚れている。見惚れながら、犀星の青梅もかくやと思ったのだろう。が、そこをあえて一歩しりぞいて「及ばねど」と詠み、その謙遜がつまりは自賛につながるところが日本人の美学というものである。しかし日本人もだいぶ変わってきたから、この句を書いてある字義通りに、額面通りに受け取る人のほうが多いかもしれない。でもそう読んでしまうと、この句の面白さは霧散してしまうことになる。どこが面白いのかが、わからなくなってしまう。やはりあくまでも、心底での作者の気持ちは犀星の青梅と張り合っているのである。実は、我が家にも小さな梅の木があっていま実をつけているが、とても尻をそろえるほどに数はならないので、こちらは字義通りに及ばない。だから、無念にもこういう句は詠めない宿命にある(笑)。俳誌「件」(第四号・2005年6月)所載。(清水哲男)


March 0232008

 三月は人の高さに歩み来る

                           榎本好宏

の外は依然として寒い風が吹きつのっています。長年横浜に住んでいますが、今年の冬は例年になく寒く感じられます。そんななか、休日の昼間、窓を閉めきった室内で春の句を拾い読みしていたら、こんな作品に出会いました。描かれている情景は分かりやすく、また親しみやすいものです。「三月」「人」「高さ」「歩む」と、扱われている単語はあくまでもありふれていて、特殊なイメージを喚起するようには作られていません。というのも、作者は感じたことを、ありふれた言葉で十分に表現できると確信したからなのです。インパクトの強い単語が、必ずしも表現の深さに繋がるものではないということを、この句を読んでいるとつくづく感じます。「人」の「高さ」という2語の結びつきだけでも、読み手にさまざまな感興をもたらしてくれます。読んでいるこちらも、その位置を高められたような気になります。等身の三月。一月二月には持てなかった親しみを、三月に感じています。衿をすぼめ、寒さに耐え、対決するようにすごしてきた月日の後に、肩をならべて一緒に時をともにすることのできる月が与えられたのです。その歩みはゆったりとしていて、後戻りをするようなこともありますが、両腕を広げ、確実に私たちの方へ歩み寄ってきてくれるのです。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


December 23122008

 許されてゐる昼酒の大くさめ

                           榎本好宏

原庄助氏を引き合いに出すまでもなく、お日さまの高いうちから飲酒するというのは好ましくないという日本の良俗がある。くしゃみやげっぷも生理的現象とはいえ、人前ですることは恥ずかしいという西洋風のお行儀がすっかり浸透したようだ。そういえば、萎んだ芙蓉みたいなくしゃみばかりになり、打上げ花火のような豪快なくしゃみを聞くことも稀になった。さらに、セクハラ、パワハラ、モラハラとハラスメントが声高に言われるなか、ずいぶん堅苦しいお約束が増えたが、それによってより健全で快適な社会になったのかは心もとない。昼酒も大くさめも、どちらも禁忌を破るゆえに成り立つ快感がある。昼酒飲みながら、遠慮がちにくしゃみなんかしなさんな、というたっぷりした空気のなかの掲句である。さらに『食いしん坊歳時記』(角川学芸ブックス )の著者でもある作者のこと、さぞかしおいしい匂いが並んでいることだろう。垂涎(あ、これもお行儀委員会に叱られそうな言葉ですね)の昼酒である。〈煤逃げをしてはみたもの出たものの〉〈梟にリラの匂ひを聴きにゆく〉『祭詩』(2008)所収。(土肥あき子)


December 19122009

 限りなく限りなかりし散いてふ

                           榎本好宏

にしても銀杏にしても、その散る姿に惹かれるのはどうしてなのだろう。散ることを儚いと見てそこに無常を感じる心や、確かに続く営みを慈しむ心。ひたすら散ってゆく花や葉にさまざまな心持ちで向き合いながら、今自分はどこにいてこれからどこへ行くのだろう、と不思議な気持ちになることもある。木の葉の命は枝から離れた瞬間に消えるけれど、木々はまた芽吹き静かに命をくり返してゆく。それは永遠ではないにしても、ヒトから見れば途方もない時間であり、星や宇宙から見ればまたほんの一瞬だろう。限りないことが限りなく続く。そう言ってしまうと説明なのだが、限りなく限りなかりし、と十二音で叙すとすっと広がってくる気がする。そんな時空の無限の広がりを感じさせる一句である。「奥会津珊々」(2003)所収。(今井肖子)


January 1512013

 一つ足し影の枝垂るる繭飾り

                           榎本好宏

日1月15日は小正月。15日というと一月も半分も過ぎてしまったという焦燥を募らせる頃だが、元日の大正月に対して小正月は古くから豊作を占う行事など華やかに行われる日だった。掲句の繭飾りもそのひとつで、木の枝に繭の形に丸めた餅を吊るして五穀豊穣を願う。地域により使う木もさまざまで、餅以外にも縁起物などにぎやかに装飾する場所もあるが、おそらく掲句は、柳や水木など、しなやかな枝にごくシンプルに飾り付けられているものだろう。明るい冬の日が差し込む座敷で、耳たぶほどのやわらかさにこねた団子をひとつずつ丸めては、枝に付ける。ひとつ加えるごとに、まるで稲穂が実るように枝垂れていく繭玉の漆黒の影が冴え冴えと畳に伸びる。五穀豊穣。古来から人々が願ってやまなかった祈りの言葉のなんと美しいことだろう。この繭飾りに付けた餅は、その夜、お飾りを焼く左義長の火であぶって食べると、一年風邪をひかないといわれ、子どもたちの遊びに還元される。生活の祈りは、どれも楽しみと手を取り合って、人々の生活に根付いていた。〈注連縄の灰となりけり結び目も〉〈餅間といふ月の夜の続きけり〉『知覧』(2012)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます